昭和42年9月1日 朝の御理解
この方の行は水や火の行ではない。家業の行ぞ。
この方の行は水や火の行ではない、家業の行ぞ。表行よりは心行をせよと申します。表行よりは心行をする。表行と云うのは、表だった行と、ね、例えば火の行とか水の行とか云った様な形に表した行のこと。表行がいけんと云うのではないけれど、表行よりは心行、心の行をせよと。
此の方の行は水や火の行ではない。家業の行と。それで一生懸命家業の行を勤めさせて頂いておるということが行と云う訳ではない。 皆誰だってそれぞれの仕事、職を持っていない者はないのです、ね。商売人は商売人、百姓は百姓と云う様にです、それぞれの仕事をしているのでございますから、みなが行をしておるのだけれども、それが果して行になっておるかどうかと云うこと。ね、信心があってもなかっても、皆行をしておるじゃないか。家業の行をしておるじゃないか。家業を持っておるとか、家業をしているとか、毎日働いているとか云うことが行ということではないことが分かるです。家業の行と仰るね、家業の中に、ね、家業の中にこれが表行でもあろうか、これが心行でもあろうかと云う様に家業の中に表行が、または心行が感じられてこそ家業の行になる、ね。
只働いておるだけが行じゃないと云うこと、ね。そういうことになるでしょうが、だからお互いがその日々の働きの中にですたい、どれ程信心で行がなされておる、行が積まれておるかと云うことなのです。
日々の様々な人間関係の中に様々な、我情我欲が渦巻く。世間一般の中から、如何にその我情我欲ではない、神様の御用を御用としてそれを勤め抜かせて頂いておるかと云うところにお道という信心に行がある。そうあってはならないけれどもそうある。いうならば、我情我欲であってはならないのだけれども、やはり我情我欲で働いておる。これだけすりゃあ幾らがとなると云った様なそのものである。それが行にならない。ね、神様が与えて下さった、云うなら天職ということを申しますが、本当に天が与えて呉れた職業と云うものをどれだけ真面目に実意丁寧に成させて頂いて居るかと云うことが行になる、ね。
その行が徳にもなりゃおかげにもなる。どうでしょうかね、皆さん。毎日働いておるけど、その働いておると云うことが神様が行として受けて下さっておる様な行になっているであろうか。もしなっていない様であったらこんな馬鹿らしいことはないです。
ひょっとすると働き損のくたびれ儲けと云った様な結果にもなりかねないのです。一生懸命働いてもう、働いて働いて働き抜いた、けれども実はもう何もなかった。あの世に行く時何一つ持って行くことが出来なかった、ね。これでは働いてもいわばそういうのが働き損のくたびれ儲けと云うのじゃないでしょうか、ね。働かなければなりません、ね。もう本当に働かなければなりませんけれども、その働きようなんです。働く内容です。働く心がけなんです。
そこを信心の教えを頂いて、教えに基づいた働きが出来てこそそれが神様の喜びにもなりゃ、徳の元にもなりゃ、それがいよいよおかげを頂く元にもなる。そしてそれがあの世にも持って行けれるものにもなる。この世にもまた残して置けれるものにもなる、という様な働きをさせて頂かなければならんところにどうでもやはり信心が必要だなあと云うことが分かります。そうでしょうが。
昨夜の御祈念に久富さんの、久富さんがああして毎晩参っておみえになる。今朝方、こんなお夢を頂いたと云うて夕方お届けされるのです。昨日の朝も参って来てありましたけど、昨日は朝お届け出来なかったから夕べお届けされました。お夢の中に丁度小学校の時の夏休みに、今は何と云いますか、おさらい帳と云うですね、夏休み帳、夏休みの間勉強せねばならんその帳面が渡る。お復習帳を頂いておる。そしてその誰かがですね、久富さんあなたはこの夏にお復習が出来ましたか。勉強が出来ましたかと、こう云われる。
そして、自分がそれに対して答えておることがお復習帳をこうパラパラめくりながらその返事をしておることが大体致しました。お復習帳をね、皆が八月一日から今は違うのですけれども、私達の小学校の時はそうであった。八月いっぱい、八月一日から八月三十日、三十一日までを大体日記も書いておりゃ、算術の問題も大体答えて書くだけは書いた。今その勉強があなたのものにどれだけなっておりますかと、聞かれた時に果してこの勉強は自分のものにどれだけなっておるだろうかと云うところで目が覚めたと。皆さんどうでしょうかね。子供達は四十五日間の夏休みを終えさせて頂いて、今日から学校へ参ります。様々に勉強した。その印になるあの「 」ものを今日学校に持って、先生からそれを調べて貰うのですね。自分でした勉強と云うのは分かる。親からして貰うた、親方からして貰うた方が多かと、勿論お復習帳一杯書いておるけれども、それが自分のものになっているかどうか分からないと云う様なものがまあ多いのではないでしょうかね。皆さんどうでしょうか。
毎朝これだけ御祈念にお参りをさせて頂いて、いわゆる信心の稽古をさせて頂いておるが、その信心のお復習帳は書くことは書いた。毎日参ることは参った、一日も欠かさず。けれども、それがんならあなたのものにそれが血肉にどれだけなったかと、云うところに今朝の御理解を一つ思うてみなければいけません。
金光様の信心はどこまでも、此の方の行は水や火の行ではない。家業の行ぞと仰る。家業の上にどれだけ信心を表していったであろうか。その家業の行の中には、これはどうでも心行がなからなければならない。此の方の行は水の行でも火の行でもない。家業の行。または表行よりは心行をせよ。成程一生懸命働かせて頂く内にきついこともあった。辛いこともあった。或は水の行にも火の行にも当たる様なことであったかも知れんね。同時にあそこのところは頂いていって、あれを心の行として頂いてきた。家業の中に、そしてこういうことを分からせて頂く。こういうことだけは、この一月の間に自分のものとなったと云った様なものがです、なされていなかったら、いーや、ね、働き損のくたびれ儲け的な信心で終ったんじゃ詰まらんと云うことになるのです。
皆さん、何が一番ものになったと思うですか。昨日或方がお参りをして来てから、先生どこどこの家内が今日私のところへ尋ねて参りました。たまがった。信心とは全く、今度あの合楽ではあの婦人会の方達が各地区別に一週間を六地区ですかね、に分けて日曜日だけは全員でお広前の客殿関係の客殿とか、応接室とか共励殿なんかのお掃除をさせて頂くことを話合いが出来た。私本当に毎日皆さんが御用をなさいますから、見違える様に美しゅうなりました。そのことをその家内その人に云うたち。何時からあげなことは決まったつじゃろうか。大体誰があげなこつは決めたつじゃろうか。家あたりの様に学校に子供がおりゃあ、そげん朝から出る訳にはいかん。いつ決まったつじゃろうか。誰が決めたつじゃろうかとこう言うと云う訳なんです。
その人も、だから急に答えることが出来なかったから、まあ私に尋ねる。私も知らんもの、ね。勿論この前も婦人会があったから、婦人会の時でもおそらく皆さんが決めたのであろう。けれどもね、それを誰が決めたじゃろうか、誰が何時決まったじゃろうかと云うて追求して、しかもそれが有難いことが決まったと云うのなら良いけれども、そういう事を決めて貰うたんじゃ私達の様に子供もちやら、出来ないと云うのである、ね。だから私は申しました。私が何時も云う様にね、そういう風に言うとですね、その問題は段々波紋を広めて行くよと、私は申しました。何時決まったじゃろうか、誰が決めたじゃろうか、しかもそういう、んなら有難いことなんだから本当に良いことが決まった。私だん、月に一回か二回かしかお参りが出来ん。けれどもです、成程その私共の当番の時はお参り出来んかも知れん。けれどもせめて日曜日だけ位は御用が出来る。必ず出なならん。必ずせなならんと、言うのじゃ決してない。信心の事ですからね。せなならんで決まったのじゃなかろうが、おそらくさせて頂こうと言う信心がそういう事になったのである。させて頂くのである。でなかったら、値打がない、ね。だから出られん者に無理にあんたが来て貰えんなら困ると言う筈もない。
そりばってん、他の人がしよんなさるのに出られんなら気の毒か、ね。だから、そういう様な頂方をせずにです、ね。日頃無信心だから、せめてお掃除当番の日だけ位はおかげ頂かせて頂こうと言う様な頂き方は出来んもんだろうか。誰が言うたじゃろうか、誰が決めたじゃろうか、ね。私は日頃何時も言う様に、ね。問題を問題にしていったらです、もう枝がついたり葉がついたり、いよいよ問題がそれがこんがらがって行く。そういう事になっちゃつまらんから、ね。
そういう時には、そういう受け方ではなくてから、婦人部の方達で思い立っておられる。さっちで來なんよ。何日とと言って決っている訳ではない。大体ね、大体決っているけれども、ね、それがいわばそのかくで押した様にそうしなければならんと言うのではない。お互いがそういう御用をさせて頂こうと言うのである。
一つの教会愛とでも申しましょうか、ね。その教会愛がそういう働きに成って来た。自分達の様な無信心者でもおかげで信心が出来る。おかげでいっぺんでも余計お参りが出来る。と言った様な思い方は出来んものであろうかね。何時決まったじゃろうか、誰が決めたじゃろうか。俺には相談もせんなとなんてん言う様なです、ね、そういう考え方が、そういうことを何時教えられた。信心の稽古をさせて貰いよってから、ね、有難いことになっていく様な雰囲気を作って行くのなら良いけれども、それとは反対に、ね、波乱を呼ぶ様な考え方やら、言い方はお互い信心じゃない。
私は昨日繁雄さんのお夢のお届けを聞かせて頂ながらですね、もう合楽に通うておられる全部の皆さんがです、これから大きな組織が出来る、大きな動きになって行かなければならんのに、組織が出来た為にかえって波乱を呼ぶと言った様なことではなくて、おかげを頂いていく為には組織の中にある一人一人がです、問題を問題にして行くと云う様なものではなくてです、その問題が起こったならその問題を自分のものとしてです、それを信心で頂き抜かせて頂き、そこに消化していくところのおかげを頂かせて貰ってこそ、私は組織が出来た値打があり、また大きな働き、一人で出来なかった御用がです、ね、大きな働きとしておかげを頂いて行くことが出来るようになるのだと。
そこでひと夏のですね、いわゆる勉強の成果と云うものがです、それを聞きながら椛目全体の方達が合楽全体の信奉者がです、このひと夏の間に、ね、家業の行の中に又は表行よりは心行と仰る心行の中にそういう様々な問題が起こってもその問題を何処へ持って行くのではなく、お取次を頂いてお願いをして、そしてそれが自分の信心で消化される様なおかげの頂けたと云うようなものだけ位、自分のものになっておく様なおかげを頂いたならば、まあさぞ有難いことだろうとこう思った、ね。
それがお広前関係だけでは有りません。自分の家庭に於いてもね。社会に於きましてもね、只問題を問題にして行く様なことではなくて、その問題をその侭自分のものにしていく為にね、心行が必要である、ね。家業の行と仰る、家業の行の中にもです、そういう心行の内容と云うものが出来てこそ、初めてです、今日も一生懸命に働かせて頂きましたと、いわゆる家業の行をさせて頂く中にも、そういう心の中に心行を頂かせて貰いながら、今日一日終らせて頂きましたと云う様なおかげを頂いてこそ、初めて私は家業の行が行としての働きを表してくることになるのだとこう思う。
家業の行と仰るから仕事を持っている全部の人が、んなら家業の行をしておるかと云うと決してそうじゃないと云うこと、ね。家業の行と仰るから仕事をしている者全部が、んなら家業の行として神様が受けて下さっていると云うことはないのです。
我情我欲みたいにただ働いているかも知れん。しょうことなしに働いておるかも知れん。しょうことなしに働いたり、我情我欲の為に働いておる者をです、行として受けて下さる筈がない。ね、
その内容が美しいものね、その内容が実意丁寧を極めたもの、その内容が心行をもって貫かれておると云った様な私は家業の行であって初めて神様が受けて下さる行と云うことになるのではないかと云う風に思いました。
まあ久富さんが頂かれましたその事から、皆さん一つヒントを頂き、八月と云う一ヶ月をです、どういう信心をさせて貰い、どういう信心修行をさせて貰い、お復習帳と書くことは書いた、毎日出ることは出て来た。お参りが果して自分のものに何処がどういう風に血や肉になったであろうかと反省させて頂いて、この九月の月をまた信心の稽古に入らせて頂きたい。そして先月出来ていなかったところを今月はいよいよ成就していく為の精進がですね、必要じゃなかろうかというふうに思うのです。 どうぞ。